南宋末期の忠臣、馬南宝の墓を訪ねて
ソース:新華社作者: 2023-05-23 10:46
中山市南区沙湧村にある馬南宝像。(2月8日撮影、珠海=新華社配信/畢建鴿)
中国広東省珠海市斗門区の黄楊山麓に位置する小赤坎新村鰲魚岡に、南宋末期の忠臣、馬南宝(ば・なんほう、1244~1280年)の墓がある。元初に土坑墓が造られ、清の道光元年(1821年)に墓碑が建てられたが、1980年代に荒廃し、87年に子孫が再建した。墓は北面し、敷地面積は約100平方メートル。
馬南宝の原籍は開封府汴梁(べんりょう、現在の河南省開封市)で、香山県沙湧郷(現在の広東省中山市内)の裕福な官僚一族だった。祖先は宋が金に汴梁を奪われ、南の臨安(浙江省杭州市)に移ると、広東南部の新会(江門市新会区)の知事になったことから一家を挙げて新会に定住。その後、南宝の曽祖父の代に香山・沙涌に移り住んだ。
宋は臨安を元軍に落とされると、さらに南へ逃れた。景炎2(1277)年に端宗皇帝が追撃を避けるため潮州(広東省潮州市)から海に出て香山の境界に差しかかると、馬南宝は兵糧千石を献上。端宗は勅書を発して南宝を権工部侍郎に任命し、その家を行宮(あんぐう、仮御所)とした。祥興2(1279)年の厓山(がいざん)の戦いで宋が滅びた後も元軍への対抗を続けたが、至元22(1285)年に元に帰順した味方を討伐する戦いで敗れて捕らわれ、国に殉じた。遺骸は同地に葬られた。
明清両時代ではその忠義が称賛され、郷賢として祭祀(さいし)が行われた。世間からは文天祥(ぶん・てんしょう)、張世傑(ちょう・せいけつ)、陸秀夫(りく・しゅうふ)と共に「宋末四忠」と称された。
編集:董丽娜
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