北宋の最高学府の一つ「応天府書院」を訪ねて 中国河南省
ソース:新華社作者: 2024-06-14 16:44
応天府書院の崇聖殿。(2024年5月9日撮影、商丘=新華社配信/畢建鴿)
中国河南省商丘市にある商丘古城の南湖のほとりに建つ応天府書院は、宋代の四大書院の一つとして名高い。もともとの名を「睢陽(すいよう)書院」といい、五代の後晋時代に商丘出身の楊愨(よう・かく)によって設立された。
応天府書院の崇聖殿。(2024年5月9日撮影、商丘=新華社配信/畢建鴿)
北宋の大中祥符2(1009)年、真宗皇帝によって府学(府レベルの官立教育機関)に昇格し、応天府書院と名を改めた。同7(1014)年に応天府(現在の河南省商丘一帯)が南京に昇格し、宋朝の陪都(ばいと、副都)となったのに伴い「南京書院」と改称された。慶暦3(1043)年には「南京国子監」に格上げされ、東京(現在の開封)、西京(同、洛陽)の国子監と並ぶ北宋の最高学府となった。北宋の政治家で文人の晏殊(あん・しゅ)や范仲淹(はん・ちゅうえん)らも加わり、応天府書院は北宋で最も影響力のある書院の一つに発展していった。
范仲淹の像。(2024年5月9日撮影、商丘=新華社配信/畢建鴿)
宋の欽宗皇帝の治世に、同書院は戦火で破壊され、250年近く廃墟の状態が続いた。その後、再建と放棄が繰り返され、名称も変更を重ねた。2003年に宋代の書院跡近くで、当時の姿を再現する事業が始まった。
応天府書院の講堂。(2024年5月9日撮影、商丘=新華社配信/畢建鴿)
応天府書院の正門。(2024年5月9日撮影、商丘=新華社配信/畢建鴿)
編集:董丽娜
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